2013年09月05日(木)
自覚
こんにちは。大野秀樹です。例えば今住んでいる家のもので、所定の場所で所定通りにそれがしていてくれていれば、ごみでもなんでもなく、たとえ景色のひとつになってしまっていて、実際は使ったりすることがないものであったとしても、日常は特に気にすることも求められないで平常に過ぎていきますが、引越しをするときのように、一度それが全様を顕す時がくると、ゴミにするしかない、やっかい存在のものになるということがあります。
この度の原発の事故の一連で露わになったことと一緒にするわけではありませんが、そこにあることも、それがある程度どのようなものかも知っていて、それでも一見おとなしく稼動し、原子力神話などというものも生まれ、それは安全で有益なものであるというような認識を与え続け、なるべく気にならないように、寧ろ気にもしないで景色のようにしていたものが、これ程の脅威であったことが実感され、どうしていいのかもわからない程の問題を提起しています。
日本のその場所においては、ごみが出たから捨てましょうというわけにはいかないものが、絶えず、おびただしい量排出され、尚且つ管理しようとしていたものが流出し、それを防ぐための何某を建設するというようなことが起きていて、それ程大変なことでありながら、少し目を逸らせば、日常が過ぎていくうちには殆ど意識もされない実態です。
意識をしたからといって何かができる訳ではありませんが、露わになり、知ってしまった以上、誰かのせいだとか、どこそこが悪いということでなく、この問題を抱える国民としての振る舞いをしていかなくてはならないだろうと思います。
未だに経済には原発が不可欠という様な論調がありますが、これ程の問題を引き起こした国がそんなこと許される筈は無いのだと思います。かといってこの問題に責任を取り続けていくには莫大なお金もかかりますから、経済も両立できなければなりません。
本当に何かがわかる訳ではありませんし、すぐさま何かができる訳ではありませんが、これ程の大問題を抱えた国民である自覚は最低限に持っていないと、直にまた、原発を稼動させようというような風潮に流されてしまう気がします。何故ならこれ程の問題について考え続けることは大変ですし、答えは見つからない、よく人間はそういう時安易な楽天主義になりたがりますから。